新年初回のセッションとシェアをありがとうございました。今年は年明け早々、元旦から神社系よりも仏系が言葉やメッセージが集中しています。今の処ですが。
「空」「色即是空」「般若心経」この様な新年は記憶にありません。友人へは成り行きをその時点で伝えましたが、この度の時間帯にまた氣をとられて、最中の10時半に忘れない様メモしました。またこれが住職さんでした。何故その辺りが引っ掛かるのかが判明した点もあります。だけどまだまだそれだけじゃなさそうで、それから何処へ導かれるのか今は未だ判りません。新年始まったばかり。楽しみに少しづつ味わって行こうと想っています。では、グループワーク中に飛び込んだエピソード、シェアさせていただきます。長くなりますがお許しください。
一番欲しいモノから求めるということ
「本当に得たかったのは何?」
仮釈放前の団体教育。罪名は詐欺、窃盗、横領・・お金を盗んだ人を前にして何を得たかったのかという質問。
『いい服を着ていい鞄を持ちたかった』
それによって何を満たしたかったのか。
それを幸せと思ったのはなぜと尋ねると
『見栄を張りたかった』
なぜ?
『馬鹿にする奴を見返すために』
何十重ねの渦中にいた。
「馬鹿にする人を見返す為に、最も馬鹿なことをしたのね」と私は告げた。
我々の行動の先には必ず意味がある。
先にある意味とは「幸せ」だ。つまり
幸せを得るために、何かを得ようとする
その何かを得る為に、また何かを求め、
求めるものを得る為にまた何かを追う。
こうやって幸せを遠いところへ追いやる。
何十重ねの条件をクリアしたずっと先に
幸せを設定してしまうから見えなくなる。
これらの悪業は自分の人生のそう遠くないところに潜む。いくつかの縁が重なってしまえば我々は悪事だと分かっていることでもやってしまう生き物である。
いや、悪事であるということが
分からなくなってしまう生き物、
という方が正しいように思う。
見栄を張ると、幸せに近づける錯覚。
人を傷つける言葉も「見栄」の一種。
マウントすることで自分の利口さを表現し
その瞬間を「幸せ」と思う。
SNSのフォロアー数の競い合いも見栄。
何万人登録達成、何百万回の再生数だとか、
数字の向こうに幸せが設定されている。
この社会のカラクリが幸せを遠のけて、いろんな条件をクリアしないと到達できないという錯覚を見させる。
そんな遠回りしなくても
幸せから手にしなさい
とブッダは説く。
最後に質問した。
いい服じゃないし見栄を張れず辛いか?と。
「辛くありません。間違えていたことが解ったので」この「間違えていた」は盗みの行為のことだけでなく心の根底に横たわっている
幸せの定義を間違えていた、そのことがよく解ったということだった。施設を出たとき、私は大きく息をし空を見上げた。なんと気持ちいい青空。自然界の美しさを美しいと思える生き方が幸せ。「幸せ」とは条件ではなく
幸せとは生き方なのだ
条件など一つもない。
高級な服が美しい・・
優雅な食事が美しい・・
何万登録者数の表記が美しい・・
迷妄するシステムになったこの社会。
全てを手離して宇宙に戻るとき
唯一、持っていけるのは心だ
歓楽を追い求めず
執着なき人は
世の普通の人には
楽しめない森を楽しむ
とブッダは説く。